紀北町長からのごあいさつ、紀北町の歴史

更新日:2019年02月27日

紀北町長からのごあいさつ

紀北町の歴史

  紀北町は日本でも有数の多雨地帯の中にあるため、見事な森林を育成させ、夏は涼しく冬は温暖の地です。伊勢志摩、吉野熊野国立公園の中間に位置し歴史と伝統を誇る町です。古く歴史を遡れば、当地方は志摩国に属していましたが、そのあと全町が伊勢神宮の御領地となっていました。

  南北朝時代には、南朝に味方する勤皇家も多かったのですが、やがてその勢力も衰微し、戦国時代の天正10年(1582)、新宮の堀内氏善の北進によって、当地方一帯は紀伊の国になりました。関ヶ原合戦のあと、紀伊藩主浅野氏が領主となり、元和五年(1619)に徳川頼宣が入国して、徳川御三家と称されました。 今の紀伊長島地区は藩政時代に入ると長島浦は島勝、白、三浦、海野、道瀬、錦の六浦と二郷村、赤羽郷五箇村の七浦六村で長島組を形成しました。特に長島浦は熊野灘を代表する海産物、林産物の集散地、積み出し港としてにぎわいを見せていました。明治22年(1889)町村制の実施にともない長島組のうち、長島浦は長島村、二郷村はそのまま二郷村、十須村・大原村・島原村は合併して赤羽村、海野浦・道瀬浦・三浦は合併して三野瀬村となりました。また、長島村は、明治32年に町制を施行しました。

  昭和25年、長島町と二郷村は、当時としては全国的にもまれであった自主合併を行い、さらに昭和30年に三野瀬村、赤羽村との合併により本町の姿となりました。昭和45年には町名を長島町から旧紀伊長島町に改称しました。 海山地区では明治4年(1871)には度会県に含まれましたが、同9年(1876)に三重県に編入され、明治22年(1889)には、町村改編により、旧 14か村を3か村(船津村・相賀村・引本村)に統合し、明治30年(1897)5月、引本村のうち須賀利浦は分村して須賀利村となり、島勝浦も・白浦も引本村から分かれ、島勝浦・白浦を合わせて桂城村が新設されました。明治32年(1899)3月引本村が町制を施行して引本町となり、昭和3年(1928)11月には、相賀村が町制を施行して相賀町になりました。昭和29年8月1日、引本町・相賀町・船津村・桂城村の4か町村が合併して旧海山町が誕生しました。 平成17年10月11日に旧紀伊長島町と旧海山町は合併し、人口20,831人面積257,01平方キロメートルの新しい町「紀北町」が誕生しました。旧海山町と旧紀伊長島町は、前面(東)に黒潮躍る熊野灘、背後(西)には日本有数の原生林が残る大台山系と豊かな自然に囲まれ、古くからその恵を生かし、水産業・林業などの産業を中心としてほとんど同じように発展してきました。気候、風土、産業、文化、生活様式など多くの面で地理的、歴史的に結びついてきた地域であり、住民間の交流も活発に行われ、日常生活圏においても一体の地域を形成してきました。以前から北牟婁郡を形成し、今回の平成の大合併により再び一つになって歩み始め、紀北町として地域の自立と将来の総合的な発展をめざしていきます。

 

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