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きほくの歴史

円通閣聖観音

桃山期から江戸初期に作られた紀伊長島区最古の仏像で「紀伊続風土記」にも記録されている。
 

大昌寺 格子絵天井

江戸時代後期に奉納された、百歌仙を描いた極彩色の絵馬を143枚はめこんだ格子絵天井。
 

豊浦神社

日本武尊の御子14代仲哀天皇によって創建された由緒ある神社です。
 

二郷神社(フウラン)

二郷神社鏡内に接する畑地の柿の木に、約300株着手している名花です。(三重県指定文化財)
 

長楽寺(五輪供養搭)

戦国時代後期に、北畠の臣・加藤家5代目甚五郎が自刃したと伝えられるお墓です。
 

海山郷土資料館

大正時代に林業家の別荘として建てられた建物を利用して、郷土の歴史を語る漁具や農具、民芸品や土器、古文書など約1,000点を集めて展示。レトロな雰囲気が漂う。
 

安楽寺 薬師如来坐像

紀北町の有形文化財の中で唯一県の指定を受けているのがこの安楽寺の薬師如来坐像です。
この薬師様はすべて一本の檜から彫られている一木造りの大変美しいもので、平安時代後期の姿を今に伝えています。
 

安楽寺の宝篋印塔・銅鐘

◆ 宝篋印塔
安楽寺の古文書によるとこの宝篋印塔は鎌倉末期・南北朝時代の有名な禅僧である夢想国師が熊野の那智に向かう途中、島勝に立ち寄ったのを記念して建てられたものと言われています。
昭和43年に町の文化財に指定されています。

◆ 銅鐘
安楽寺にもとからあった鐘が損傷したので、檀家一同から募金して、寛延2年(1749)に新たに鋳造された。と、鐘の池の間に彫りこまれています。
常保善四郎という人の作であり、しかも同時同型で、どちらも名作として称揚されています。
 

吉祥院山門

引本浦に吉祥院というお寺があります。
この寺の入口に、高さ約6.7m、間口8.71mの山門があり、唐獅子と牡丹の花の彫刻が刻まれ「獅子厳山」と書かれた額が門の正面に飾られています。
 

修禅寺木造宝冠釈迦如来坐像

お釈迦様は普通は冠をかぶってはいませんがこの修禅寺のお釈迦様は冠をかぶった、珍しいものです。
このような冠をつけたお釈迦様は、鎌倉時代から室町時代、江戸時代にも多く作られたといわれています。
修禅寺のお釈迦様は江戸時代初期のものだといわれています。本像の由来については不明な点が多いですが、寺の言い伝えでは、昭和3年に本堂が全焼し、同5年に本堂を再建した際に、本寺である紀伊長島区の仏光寺より贈られたものといわれています。
 

宝篋印塔

鎌倉末期に伊勢に生まれ、臨済宗の黄金期を築いた夢窓国師が、船で那智に向かう途中、島勝の安楽寺に立ち寄った縁りから建てられた供養の搭。
 

腹子持鯨菩提の塔

白浦は当時熊野灘沿岸ではもっとも名を知られた捕鯨地でありました。
この白浦に伝わる伝説によると、ある年、一頭の鯨も取れない年があり、ある晩、鯨が同地の常林寺住職の夢に現われて、「明日この沖合を通りますが、お腹に子供を宿しているので、獲らないで見逃してください」と哀願しました。
明くる朝、鯨船の出漁を思いとどまらせようと、住職が出向いたところ、鯨船は港を出た後でした。
やがて船は一頭の鯨を取って引き上げてきました。
それを陸に上げて解体したところお腹の中に子供が入っていました。それから白浦には悪疫が流行してたくさんの人が亡くなり、海は不漁続きになったので、母子鯨の菩提をあつく弔ったといわれています。

善光寺句額

矢口浦にある善光寺には、俳句を書きつづった一枚の額があります。この額は、約115年前、江戸時代の後期に俳句の会を行った記念に奉納されたもので、今では寺の客間に掛けられています。
その表面の絹地の右側には美しい桜の花を、その左には63名の俳句が美しい字で書きつづってあります。その中には町内の人はもちろん、愛知県や和歌山県の人も入っています。

乙ノ輪石仏群

この石仏群は乙ノ輪の山を数分上ったところに14体の仏像が置かれています。
石仏にはすべて台石はなく、立った像や坐った像など様々で、その中の一つに刻まれている文字から、この石仏群は、加藤周園という人が、ここの地点が粉本村(今の相賀)のちょうど鬼門にあたるので、元禄2(1689)年から建てはじめて、年々その数を増やしていったものといわれています。

うしろ山城跡

この地方には室町時代のものとされる古い城跡が、いくつかありますが、うしろ山城跡はそれらよりもさらに古い、鎌倉時代の城ではないかといわれています。
相賀地方はもともと伊勢神宮の土地でここを治め、年貢取立ての役目をしていた息長氏という豪族が平安時代中頃から住んでいましたが、その子孫が鎌倉時代中頃に立地条件がよいところからここに城を造ったといわれています。

長泉寺木造阿弥陀如来三尊像

小山浦の長泉寺境内の向かって左にある阿弥陀堂の本尊です。阿弥陀如来坐像は、一木造りで座高87cm。制作年代は、平安時代後期の藤原様式の特徴をもつものであるが、玉眼(仏頭の内部をくりぬき、内側からガラスをはめ込んで作った目)を使っている点から、鎌倉時代初期と推定されています。観音・勢至の両菩薩は当初から阿弥陀如来の脇侍として造られたものであり、中尊と同じく一木造り、玉眼です。

はまぐり石

このはまぐり石は相賀の真興寺の境内に、その形がはまぐりに似ているところからそう名づけられた自然石です。
正面の円内には、仏像(観世音菩薩)が浮き彫りにされ、当時は大変な旅であった熊野詣や巡礼の道しるべを重ねて亡くなった人を、弔うためのものであったと考えられている。

真興寺銅鍾

この鐘は島勝浦安楽寺の鐘と同型で同じ寛延2(1749)年、常保氏初代清次によって製作されました。異なる点は刻まれている銘文がちがうだけです。

雲祥寺木造宝冠釈迦如来坐像

この宝冠釈迦如来坐像は、頭部、胴体、下半身の部分を別々にくっつけた寄木造という手法で造られています。
両手首が失われており、何を持っていたかはわかりませんが室町時代中期に造られたものといわれています。

宝泉寺銅鍾

この宝泉寺の銅鍾は宝暦4(1754)年に現在の津市に住んでいた辻種茂という人の作で、県下に多くの名作を残した人物です。
中でも飯南郡飯高町波瀬、泰運寺の八角銅鍾は有名です。

永泉寺句額

船津にある永泉寺には、縦50cm、横165cmの杉板に縁を付けた句額があり、59句の俳句が書かれています。
世話人は琴亭(永泉寺住職)と楽水(速水七郎平)で、選者は近江の国の俳諧師可涼園桃乙です。

孝子勘七文書

小山浦に勘七という人物がいました。
彼は宝永7(1710)年に七郎右衛門の子として生まれ、幼少の頃、父と兄喜平治に死別した後、貧窮の中に病弱な母につかえて、たゆまぬ孝養をつくしたので、紀伊藩主から賞米を賜ることとなった。
母が亡くなった後、恩米を辞退したいと願い出たところ、その気持ちを賞せられて、「孝子勘七伝」を藩の学者に書かせて勘七に与えました。
田舎の百姓がこのような賞米をもらったり、「勘七伝」を与えられるということは大変珍しいことでしたので、孝子勘七の名は全国に知れわたったということです。

矢口浦出土品

紀北町海山区では矢口浦が最も古代遺物が豊富な所といわれ、同地の野中富平氏が探求を続けた結果、続々と発見されて貴重な資料が明るみに出た。
中でも昭和28年7月に同地網代で採集された土器片は、鑑定を受けた結果縄文時代後期初頭のものであることが明らかになりました。これが当町での縄文土器確認の第1号です。

中里村御触書掲示板

徳川幕府は、天保12(1841)年に水野忠邦を老中首座とし、享保・寛政の両改革への復帰を目指して改革に着手しました。
諸藩はこの方針にしたがって、奢侈の禁止、風俗の粛正を断行しました。
この板書はその指図にしたがって中里村で掲示したものです。どこの村浦でも実行されたはずですが、長期間にわたって戸外にさらされ、諸人の目に直接ふれた上意下達の現物が、130年間もきわめて良好に保存されていた稀有の史料といえます。


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